昭和44年10月12日 夜の御理解
只今の御祈念中に、神様の方へ御祈念をさせて貰いよってから、奏上させて貰いよるのは、祖先賛辞、ふっと気が付かせて頂いてビックリしたけれど。この祖先賛辞が、あんまりに有難く上がるもんだから、はあ有難いなあと思うて、祖先賛辞を奉らせて頂いておったら、あの神は、梵天と云う事を頂いたですね。そのどういう意味か私もよくその、仏教的な言葉ですから分かりませんけれども。
本当の事を言うたら、神もなからなければ仏もない。神もなからなければ御霊もない。神と仏とが一体になってという、問題は、そのそれに引っかかる、と云う事がいけないのであってね。私共の日常生活の上にも、例えば縁起でもないと言った様な事を、その心に引っ掛ったりする所に、縁起でもない事が起きてくる訳なんです。しかしその事が有り難いなあと思うたら問題ない。
実を言うたら、あれは天津祝詞でも大祓いでも良ければ、本当はいろはにほへと言うとっても良いのである。例えばあの祝詞を奏上させて貰いよる時に神様に通う、その為の一つの手段であり方法なのだと。だからもうとにかく我武者羅に何でもええ、いるはにほへとちりぬるをと言うて心が静まるなら、それでも良いのである。けれどもそれからと言うて、あの神様の前に祖先賛詞を上げれると言うのじゃないですけれど。
私はね祖先賛辞を途中で気付かせて止むる気もしなかったけれどむしろ有難く、こう神様に入っが受けて下さっておるという感じなの。その時に神は梵天と云う事を頂いた。どう云う事か意味は分からんですけれども、まあ私が感じるのにはね、もう神もなからなければ仏もない。言うなら人間私共氏子もない。人と三者が一体になって。だから霊神さんの方にはもう、祖先賛詞を差し上げなかった訳なんですけど。
もう私が唱えて居る所。神様も仏様も私も一緒になって喜び合っておると言う様に、心がおかげにならない筈はないて。いやあ気分悪い今日はもうほんに縁起でもない。神様の前で祖先賛辞が上がったなんて言う所にですね「心あれば」心を汚す。是がおかげを受けられない元なの。ですから本当言うたら例えば眠れない時に、一、二、三、四、五、六、七、八・・・数字を数えよっても、眠れると言う、言われるでしょう。天津祝詞を奏上しても同じ。そういう道理の物なんです。
ですから実を言うたらそれは何でもええ。問題はそれをあらっ間違えたと云う様な、その思い方がいけないのであってね、はぁ是はと思うのがいけない。自分の心の中に有難くおかげ頂いて行く所に神もなからなきゃ仏もない。勿論霊神様と神様と人間氏子とが一体になって、こう喜び合っておると言った様な物を、さっき只今の御祈念に私感じたんですけれどね。皆さんは後ろでどんなあっ今日は何か間違うとるなと( ? )、後ろの方もやっぱり平気で上げよんなさると言う所を見ると、おかげを受けておられたんだと思うんですけれどね。
どうぞ。